〈温かくも軽い色覚異常相談〉
- kofujimoto
- 2017年9月21日
- 読了時間: 3分
長大の障害学生支援室の先生方3人との面談があった。 この間長大医学部キャンパスのバリアフリーマップ作り(車椅子の人が通れる場所や通りにくい場所をマップにしたもの)のときにご一緒した3人だ。 なぜ今日こんなことが行われたかというと、軽く色弱について言っただけなのに「是大学の過ごしやすさ向上のために是非詳しく聞かせてほしい」と言われたからだ。 その全力で障がいのある人に向き合う先生方の心に仰天した。
色弱とは色の区別がつきにくいことだ。 僕は先天的赤緑色覚異常で、緑や茶色といった色は区別がつかない。 だから要望としては、緑や茶色、オレンジを使ったグラフを赤や青に変えてほしいこと。 教科書の説明の際に色の情報だけでなく他の手がかりになることも言ってほしいこと。 などを伝えた。
実は他にもわかりにくいものが多い。 黒い活字の一部か赤字になっている場合だ。 これは意外と知られていないため困ることが多い。 黒字に赤字が紛れている場合は赤字も黒字と同様に見えて全て黒字に見える。 強調する時は是非下線を引くか太字にするか斜体にするか もしてほしい。
他に解剖で神経や血管がわかりにくかったこと、患者さんの顔色を診れないおそれがあること、色の識別を必要とする医療機器は扱いづらいかもしれないことを話した。 代替策を見つけていこう。 東洋医学は十分代替策になりそうだと思えるが、他にも見つけておくに越したことはない。
先天的な色覚異常は日本の男性に5%いると言う。 この多さから最近は「色覚異常」ではなく「色覚多様性」と言い換える動きが進んでいる。 しかし、これを「多様性」と呼んでいいのだろうか? 自分が苦労して生きてきていることに対して「それはただの多様性だから気にしなくていい」と言われているような気がする。 健常者は医学的なものを優先させて障がい者の気持ちを考えにくいのかもしれないが、「色覚多様性」のある人たちはその「異常」により社会から排除されているのだ。 障がい者の捉え方に「個人モデル」と「社会モデル」がある。 前者は障がいは個人に起因し個人を変えないと解決できないという考え方、後者は社会から排除を受け苦しんでいる人のことを障がい者と呼び社会が変われば障がい者が障がいの壁を感じなくてよくなるということだ。 世界的に色覚健常者が色を使うことを推進してきた。 その過程で「色覚異常者」はその外に出されてしまった。 この現状を踏まえると後者の「社会モデル」の方が適切ではなかろうか? 社会から排除されて苦しんでいる人にはやはり「異常」という目印とある程度の配慮が必要ではないだろうか?
焼肉で生と焼けたものの区別がつかないことや、空手の茶帯時代に緑帯を間違えてつけていたことや、図工で人を緑色に塗っていたこと。 いろんなエピソードを話したが、どれも堅苦しくならず適度な笑いやツッコミがあり居心地がよかった。 障がいの問題だから堅苦しくなるということが多い。 でも、それにより障がい者として見られているということが悲しくなる人もいる。 「障がい」というのはあくまでも目印に過ぎない。 時々補助が必要ですよ という目印だ。 1人の人間として障がいに関して温かくも軽く接してくれるこの先生たちならきっと長大の障がいのある学生の未来を照らしてくれるだろう。
コメント