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〈異文〝華〟交流〉

  • kofujimoto
  • 2017年7月29日
  • 読了時間: 4分

土曜日の朝から始まり日曜日の夕方まで、知的障がいの子どもたちとキャンプに行った。

主催は南高愛隣会と3つの事業所、場所は諫早少年自然の家。

幼稚園から高校まで44人の知的障がいの子どもたちと1泊2日のお泊まりだ。

開会式は体育館で催された。

担当する少年は高1の子だ。

簡単な説明と「かなりおもしろい子」ということだけ聞かされていた。

重度の知的障がいと診断されているのに臨機応変だということでおもしろいらしい。

多動な子にはたくさん接してきたが、この子の多動もまた一段と多動だった。

座っていても急にどこかへ行ってしまうし、人が話していても突然「あーー」と声を出してしまう。

それでも言っていることは伝わっているというのに驚かされた。

何をしたらいいか把握できているのだ。

沢登りをしたり、キャンプファイアーを囲んだり、一緒に寝たり、薪を割って焼きそばを作ったり。

様々なことを一緒にすることで、知的障がいといってもたくさんのことができることに気付いた。

自分が知的障がいという固定観念に囚われていたことを突きつけられた。

知的障がいの子どもたちと接している中で、「僕らの常識」と「彼らの常識」が違うという経験をした。

お菓子を催促していることと、他人の食べ終わった食器を片付けていることを比較してみよう。

「僕らの常識」で見ると、前者は自分勝手だから怒られるべきことで、後者は優しさだから褒めることだと思える。

しかし、彼にとっては身勝手でもなければ優しさを意図した行動でもない。

袋にチョコレートがあと3つ入ってるから0にして捨てたい、テーブルの上に食べ終わった食器があるから片付けたい。

どちらも物事をあるべき姿に戻したいという思い、それだけなのだ。

社会では「優しさ」や「思いやり」などの言葉がある。

〝優しさ〟を意図した行為は「優しさ」と呼んでいいのか、〝優しさ〟を意図しないでも習慣的に自然と出た行為は「優しさ」と呼ばれないのか、はたまた「優しさ」という言葉を定義していいのか。

犬が落としたものを拾ってきたのを「優しさ」と言う場合もある。

それは正しいのだろうか?

安易に「優しさ」や「思いやり」と呼ぶことはただの無理解なのではないか。

現代社会で使われる「優しさ」という言葉は、相手が意図している物事を正確に把握することから逃げて行為だけを見ているときにも使われてないだろうか。

〝共感〟の心を以って思ったことをするということが真の〝優しさ〟であってどのようなことをするかではない。

他人に〝共感〟して相手のことを考える〝優しさ〟があってはじめて他人の〝優しさ〟がわかるのではないか。

そう考えれば「優しさ」という言葉は要らないように思える。

彼は何十冊も本が置いてある本棚から8冊をとり全て元の位置に戻した。

彼は好きな曲の歌詞を全て覚えており歌うことはできないがケータイで打つことはできる。

他の事業所の電話番号まで覚えているため他人のケータイの連絡先に追加していることもあるという。

「知的障がい」と言われる彼らだが、「知的」という言い方は「多数派」の極めて断片的な見方なのではないか。

発語がないから、文字が書けないからという学問的な基準が主で「知的に」劣っていると言えるのだろうか?

文字や言葉がない時代なら彼らは「多数派」よりもずっと「知的に」優れている。

アメリカのTEACCHという施設がある。

その創設者エリック・ショプラー博士は〝自閉症の文化〟を知ることを重視する。

自閉症も発達障がいも知的障がいも全て〝文化〟なのだ。

他の〝文化〟を知って「常識」を疑うことが大切なのではないか。

僕は「文化」という言葉にマイナスイメージを付与しているので〝文華〟という言葉を使いたい。

健常者の作り上げた悪き「文化」は〝異文華交流〟によって塗り替えることができる思う。

バイアスのかかっていない目で世の中を見ることの重要性を改めて確認するいい機会になった。

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